爆誕

人として軸がぶれている女の日記

「推しの死」にバフをかけるコンテクストの話

タイトルでお察しのことと思うが、昨日の記事の続きである。
sikibububu.hatenablog.com

推しに殉死してほしいという話を書いた後、個人の死だけでなく、「敗者が死ぬ」という構造にもフェチズムを感じているということに気がついた。
そこで、今回は勝者と敗者というコントラストの話をしていきたいと思う。
今日見てきたスッスッスッの感想も書きたいのだが、どうにも言葉としてまとめられないので明日に回す。


さて、日本には、昔から「判官贔屭」という観念が存在する。辞書的な説明を引用すると以下の通りだ。

精選版 日本国語大辞典
ほうがん‐びいき ハウグヮン‥【判官贔屓
〘名〙 (薄幸の九郎判官義経に同情し愛惜する意から) 不遇な者、弱い者に同情し肩を持つこと。また、その感情。はんがんびいき。

判官贔屭とは、刀ミュでおなじみの義経が由来の言葉である。ざっくり言えば、「負ける側に惹かれる気持ち」だろうか。おそらく、私はこの感覚がかなり強いのだと思う。

例えば、歴史上の好きな勢力で考えてみると、源氏と平家では元々平家のほうが好きだったし(今は源氏兄弟のおかげで源氏も好きになった)、関ヶ原の戦いでは三成方の西軍を応援する。幕末では、蛤御門の変で京を追いやられた長州藩が好きだし、極めつけに錦の御旗の敵となってしまった新撰組が大好きだ。

彼らの死を一言でいうならば、「未来に続かない死」である。本人たちの意志や理想は消え去り、ただ「歴史的敗者」という結果だけが残っている。
それでも、彼らは彼らなりの考えや理想を持ち、その人生を最大限まで使って達成しようとして、それでもなお時代の流れによって散っていった。その死に様の美しいことよ。
死に様は生き様。彼らの生は美しい。この構図によって、敗者の美学が生まれるのだ。


これは二次元にも当てはめることが可能である。
私の好きなキャラクターは、主人公側からするとライバル側、しかも実力者ばかりの勢力に属しているものが多い。
しかし、そのようなチームに限って勝利することはできない。本人たちは才能にあふれ、努力を怠ることもなく研鑽を積み重ねてきた。その上で、全力で主人公たちに勝負を挑んでくる。普通なら勝利するであろう者たちだ。

だがしかし!だがしかし!!彼らは世界の要請によって、主人公たちに負けることが確定しているのである!!!
しかも、基本的に勝負は一度きり。覆すことはできない。そんな彼らの死に未来はない。主人公サイドのキャラクターの死とは論理が違い、ただただ主人公たちの糧となるのみだ。

ああ、なんと哀れでいじらしいことか!最高!
ジョジョ5部の暗殺チームも、弱ペダの箱根学園もこのパターンだ。アニメで再燃した暗殺チームは本当に見事な全滅っぷりで、控えめに言って興奮した。


一昨日の記事で書いたような推しの概念は、敗者の美学というコンテクストに置くことによって、最高に美しい存在になる。
これが土方歳三系の推しの成立過程だといえるのではないか。


ちなみに、友人に
「式部さんの推しで生き残ってる人って安室さん以外にいるの?」
って言われたけど、一応いる、はず、、羽風とか、、、でも羽風にも入水自殺してほしいしなんかもう駄目かもしれない。
生きてる枠の安室さんも、日の丸のためなら身を捧げるタイプの人だしいつ死んでもおかしくない。なんやかんやでコナンくんと赤井さんが助けそうだけどね。

諸行無常、盛者必衰。春の夜の夢のような、風の前の塵のような生。
私の推しはみな等しく美しい死が確約されているのだ。